| 終章「飛び出した空」 |
ベットのなかで、河田がすがりついた美優の足も震えていた。 どうやったのかは河田には分からないが、追い払ってくれたらしい。 「妖精さん……私がんばったよ……なんとか妖精さんを守ったよ」 怖さなのか嬉しさなのか、美優はポロポロと涙をこぼしていた。 「だから、妖精さん……今度は妖精さんが私を守ってよ」 そうお願いされて、握られた小さな手の暖かさに、河田は覚悟を決めた。 「分かったよ、やれるところまでやる」 美優が助けてくれなければ、さっき捕まって殺されていたかもしれない。 だったら、美優のために命を賭けてもいい。 もしかしたら、失敗するかもしれないけど。 「いっしょにいこう、いけるところまで!」 もはや、この握られた手を二度と離すつもりはなかった。
河田に覚悟が決まったとしても、絶対絶命の状況が変わることはない。 幸いといえば、律子が自分たちがどう警備しているかをご丁寧に説明してくれたこと。 律子が、美優が敵対行動をしていると判断しているなら、それは言うべきではなかった。美優の突然の威圧に、動揺して犯したプロらしくないミス。 そこに、つけこんで屋上まではいけた。 とりあえず、透明になるための海水を手に入れるためである。 通路に配置しておいた海水が全て廃棄されていたのは痛かったが、部屋の海水が捨てられた時点で、気づかれているのは想定の範囲内だった。 だが、屋上の海水だけは無事だと信じていた。 一人のほうが逃げやすい、だけどちゃんと美優と二人で屋上まで駆け上がった河田が向かったのは、屋上にある立派な給水塔だった。 どんなマンションでも、いったん屋上に水を貯めてから下に流すために、必ず貯水タンクが設けられている。給水塔の影にも、粉末状にした海水を隠していたのだが、完全にマンションを探索したらしい警備員の手によって廃棄されていた。 しかし、そっちはダミーでさらに奥の手が用意されているのだ。 「ちょっと待っててね美優ちゃん」 そうして、給水塔のハシゴをあがりタンクの中へとザバンっと、身を投じる。 タンクのそこから、透明な容器を持ち上げて外にでる河田。 容器には、海水がたっぷりと二リットルは入っている。 木を隠すには森の中。海水は……そう、水のなかに隠せば見つからない。 当然、勤勉で優秀な警備員たちはタンクの中も覗いて調べたことだろう。 しかし、水の中の透明の容器と中身の海水は上から見るだけでは分からない。 透明になる海水がばれるかもしれないというタイミングに、さらに奥の手を考え出して準備しておいた河田は、やはり並みの犯罪者ではないといえる。
海水をざぶりとかぶり、瞬く間に透明になる河田。 「あれ、それ透明になるお薬? じゃ、私も」 そういって、美優も一緒に海水をかぶる。 「いや、美優ちゃんは……!?」 そうすると、美優の身体もゆっくりとだが透明になっていき、消えた。 服を脱ぎ去れば、河田と同じ透明人間だ。 「いったい……どうして……なぜ」 透明になった美優は、クルクルと踊る。 「あは、これ透明になるお薬なんでしょ。だから、私も透明になったよ」 なぜ、こんな現象が起こったのか。 そのときの河田には考える余裕すらなかった。 ここ一番というときに、更なる奇跡を起こしてくれた神に感謝するしかない。 それでも楽な仕事ではなかったが、二人とも透明になった好機をいかしてフェルリラントを脱出することは難しくなかった。 そして、その足で国外に脱走することも、この日のために準備を整えていた河田たちには容易なことだった。 それにしても、なぜ美優まで、透明になれたのか。 これは、あとで河田が考えた仮説だが、あのマンションの屋上に到達したとき。すでに美優は懐妊していたのではないか。 つまり、透明になれる河田の身体の一部をすでに身に宿していたから、美優は透明になることが出来たと……だとしたら、そう望んでくれた美優が起こしてくれた奇跡といえないこともない。 美優の不在に、警備が気づいたのは河田たちが脱出してから半日も経ってからだった。すぐに警察に連絡するとともに、律子たちも追ったが半日の遅れは、致命的だった。美優の実家である小家の家も動いてくれたようだが、そっちは極秘調査でいち警備会社の経営者であるだけの律子には知らされなかった。ただ、国外へ逃亡したのではないかという説が有力だという話だ。
その後、マンションに部外者の侵入を許したことに加え、美優の誘拐事件、さらにマンションの住人二人の妊娠事件があり、その全ての責任を問われた枝川律子はフェルリラント管理の任を解かれる。 フェルリラントは、違う警備会社が警備を担当することになり、表舞台から締め出された枝川律子は会社を畳み、別の手段での出直しを余儀なくされる。 全てが遅きに失したことを歯噛みして、屋上に残されていた唯一の遺留品、透明のペットボトルと美優の脱ぎ捨てられた衣服だけを握り締め、律子は結局見つけることができなかった侵入者への復讐を心に誓った。 放逐された獣は、また野に放たれたのである。 フェルリラントを落城させた河田の足跡は、アングラサイトに残り。 伝説の変態として、長らくその功績を称えられることになるのだが。 そのころ河田は……。
どこまでも広がる青空を見上げて、河田は視界に広がる砂浜の美しさにしばし目を奪われていた。 「そういえば、こんな海から始まったんだったな」 自分たちの国のあの騒がしい海と比べて、この国はまだ開発が進んでいないせいか空気が綺麗で、海も澄み渡っている。 たしかに、国の経済レベルは比べ物にならないほど不便で貧しいけれど、ここにはそれ以上に豊かな自然がある。 そんな感想を持てたのも、自分が変わったからかもしれない。まあ、ここが金持ち向けのリゾートだからそんなのんきなことが言えるのであって市街地であれば、また違った感想を抱くのかもしれない。 「でも、落ち着いたらこの国の町も見に行ってもいいかもな……」 誰も居ない砂浜を散歩した帰り道、河田は道端に咲いている綺麗な花を見つけて摘んで帰ることにした。自分の国にはない、綺麗な紫色の花だった。
「美優、帰ったよ……」 窓際で、やはり空と海を見ていたらしい美優が振り返った。 「あ、綺麗なお花」 そういう美優のお腹はすでに目立つほどの大きさになっている。 安定期に入っているとはいえ、この国の日差しは少し強すぎるから、日中は無理をさせないようにホテルに居てもらうことが多い。 子供のころから一人で過ごすことが多かった美優だから、取り寄せた好きな本でもあれば、一日でも静かに過ごしている。 それでも、やはり河田と話しているときが楽しそうに見える。 河田は、もう美優の唯一の家族なのだから。 そして、あと何ヶ月かすればもう家族が一人できることになるだろう。 花瓶に水を入れて、花を一輪挿しにして振り返ると、美優が上着を脱いでいた。 「えへへ……あのね、実はね」 妙に嬉しそうだ。 「おっぱいが出るようになったんだよ、飲みたがってたでしょ」 そういって、さらに豊かになった胸をそっと河田にさし出して、美優はほころぶように笑う。 美優がはじめて出した母乳の甘い味は、もちろんたまらなくおいしかったのだが。 「おいしい?」 「うん」 「……よかったね」 そういって河田を喜ばせたと喜ぶ、美優の笑顔がもっと嬉しかった。 愛しさにたまらなくなって、美優を抱きしめた。
たとえどんなに河田が美優を愛していたとしても。 あいかわらず河田が、優しい彼女を騙し続けていることに違いはないのだ。 そして警察も、政財界に権力を持っている小家の実家も、あの警備員たちも、この瞬間も、自分たちを追い続けていることだろう。
それでもどうか、この奇跡を起こしてくれた神様が本当にいるのなら。 どうか、どうか、あとひとつだけ、無理なお願いを聞いてください。
美優とずっと一緒に、この世界で生きていけますように。
世界で一番大事なものを抱きしめて、河田は澄んだ空の向こう側に深く祈った。
「女の城」完結 著作ヤラナイカー
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